強くなったと感じる事
今のぼくは、
最低限の収入分だけ働き、
週4日ないし5日は休息の日としている。
休みの日は大きく息を吸いながら、
時間の流れを感じつつ、
自分の療養に満喫している。
しかし、
療養の中身は幅が広い。
身体的障害、精神的障害にとどまらず、
自分自身の中にある繊細で脆い心、人目に怯える気持ち、一喜一憂しては、周りの物事に振り回される生き方も好きではなかった。どんな出来事があっても動じず、波風が強くても、いつも凪でいられる心がほしかった。
そして、療養を始めて1年と半年、気づけばこれらの問題の一つ一つが解消されている事に気付かされた。思いもよらない事実に驚きながらも、今生きている自分が、かつての弱い自分ではないことを確信することができた。
そこには限られた社会との接点の中で、常に自分の心と、人の心を対比し意識し続けていた事が理由かもしれない。人が人を動かし、人が人に従う。口から出る言葉とその人の気持ちを見続けていたかもしれない。一人一人に興味を持ち、何を考え、どのような感情を持つのかを見ていたからかもしれない。
社会的な地位は無視してはいけない。
しかし、そこにいるのはただの人。
気づけば 無意識の内に誰かの言葉が、頭の中をぐるぐると回ることは無くなった。社会的責任は無視してはいけない。しかし、そこに責任がないのであれば、気にする必要はさらさらない。
こんな事を考える中で、自分の悩みのほとんどは対人関係である事に気付かされた。そして、その悩みが、悩む必要のある事かを考えると、大抵のことは悩むに値しないことばかりだった。もう一度言うが、気にする必要のない事は忘れるに越した事ない。このことは後でもう一度触れよう。
そして、一喜一憂する生き方だ。
ぼくはこれを子供のような生き方だと考える。良い出来事があれば自分を忘れ喜び、悪い出来事があれば、全てを投げ出して苦悩する。これは極端な例であるが、これに対し、喜びがあっても、苦しみがあっても平常心のある人間は強いと言えるだろう。ぼくはそう思う。
それを乗り越えるために、ぼくが感じたのは期待しないことだった。少し消極的な印象を受けるかもしれないが、期待するから喜びは大きく、期待するから失望も大きくなると言える。決して、喜ぶな、悲しむな、と言っているわけではない。その度合いをコントロールする事に意義があると考えている。
もしかするとこの考え方は、喜びへの対策というよりも、悲しみを最小限に抑える事にフォーカスが当たっているのかもしれない。
期待せず最悪の場合に備える心こそ、どのような事態にも対応できる平常心を保つ事ができるのではないだろうか。
そして最後に、
嫌な事を忘れられるようになった。
これはある程度、自分を見つめたことのある人なら、形はどうであれ、考えたことはあるのではないだろうか。よく言う、忘れたくても忘れられない、と言うやつだ。嫌なことを忘れられたら、どれだけの人が幸せに生きる事ができるだろうか。
これについては、方法論として自分がしている事を話す。それは、ぼーっと空を見上げ、忘れたい事をぼんやりと思い出しながら、大きく深呼吸をする。ぼくはこのようにして嫌なことは忘れている。騙されたと思ってやってみてほしい。朝焼けでも、真昼でも、夕焼けでも、夜空でも、同じ気持ちがあるのであれば選ぶ必要はない。
至って簡単な事であるが、この記事を読んでいる方々で、1度でも空を見て深呼吸した人は何人いるだろうか。ぼくは空を見上げるのが好きだ。理由は分からない。しかし、大きな空を見ていると、小さな悩みはどうでも良くなるのかもしれない。ぜひ試してみてください。そして、他にも方法がある人がいればコメントください。
ぼくの目標は、
繊細でもろい自分から、
太々しく堂々と生きる自分へと変わること。
では今日はここら辺で。