てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

他人の不幸は。。。

日本人は、弱い立場の人間が苦労して這い上がる話が好きらしい。

日本人に限らずどの国の人でも好きなのではと思うが そうらしい

その証拠に、そう言った内容の映画やドラマは有名となり人気があるのは確か。

例を挙げればきりがないだろう。

 

日本人がそう言ったものが好きなのには理由があるらしく、日本人の国柄として 共感性が強く、仲間意識のようなものを無意識に持つからのようだ。

そう聞くと日本人が苦労話が好きと言うのは、何も上から目線で見ているわけではなく、むしろ同じ視点に立って応援するような構図が見えてくる。こう言った国柄があるのであれば日本人である事が誇らしく感じるのはぼくだけではないはず。

 

ただ、それを踏まえても なぜ今回の題名で記事にしたかと言うと、これからぼくが書く事に共感し、励ましてほしいとは思っていないから。

 

事実、題名で言っているように苦労話を聞く人だって少なからずいるだろう。

 

それではしばらく綴ります。

最終的な結論として、今ぼくは療養を強いられ少し働き自由気ままに生きている。双極性障害、いわゆる躁鬱病を患い、自分ではなかなか制御できない気分の波に多少振り回されながら。

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ぼくは高校を卒業してすぐ働き始めた。航空機部品を作る会社で設計の仕事に就き、月曜から金曜まで。毎日の残業は会社全体の暗黙の了解。同じ職場で働く技術部の人達はみんな大卒。なぜぼくがそこに選ばれたかは分からないが、自分の願っている仕事に就く事ができた。

少しでも穴埋めをしなくてはと、毎週末 図書館へ行き勉学に励んだ。

 

そして2年半が経った頃、仕事も安定し 力量も認められたのか、大きなプロジェクトに携わるようになっていた。ようやく仕事が波に乗り始めたのだ。そこまでの道のりは決して短くはなかった。

 

しかしその一方、ぼくはもう一度学ぶために学校へ行く志を持っていた。設計課 直属の上司から、ぼくが高卒であることを 勿体なく思われ、若い内に大学へ行くことを熱心に勧められていたのだ。

 

そしてぼくは就職して3年目、退職して学校へ行くことになった。最後の日、技術部の部長からは退職する事を惜しんでもらい、「例え茨の道になっても頑張れよ」と声をかけてくれた。

 

そして他県へ行き入学。

 

しかしその半年後、

ぼくが躁鬱病になるトラブルが起こった。

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とても一言では言えないが長々と書きたくもないので出来る限り端的に。入学して半年後、寮生活でありながらも、毎週末 実家に帰らなくてはならなくなった。理由は身内のトラブルを解消するため。その道のりは車で片道6~7時間。主に電車と高速バスを使い片道9時間はかかった。

学校は寮生活で火曜から金曜まで学校。土曜から月曜までが休みだった。なのでぼくは金曜に学校が終わるとそのまま実家へ向かい、用を済ませて月曜日に寮に戻ると言った生活になった。その間、身内間での争いは激昂し、ぼくは無機質に相手の意見を取り持つ窓口として立たされていた。疲労困憊した身体で、火曜からの学業は始まり、課題をこなす日々。寮生活中にも頻繁に電話やメールが来ては対処し、週末になるとまた9時間かけて実家へ帰る。高速バスを使っていた理由は、車で長距離を運転するほどの体力は行きも帰りも残っていなかったから。

 

そして2ヶ月が経ち、ようやく身内間での争いに終止符を打てる最後の日に事件は起こった。これまで あくまでも窓口として、お互いの意見をお互いに伝えていたぼくに対し、思わぬ形で両者から矛先が向けられたのだ。それはただ1通のメールだった。しかしそこには、ぼくに対する殺意に満ちた内容が長々と書かれていた。親しい父親からの殺意のメール。ぼくを裏切り者だと責め立て、実家に火をつけると脅された。

 

耐えられなかった。既に耐え切れないほどの負担を耐えていたのだ。そのメールを読んだ時、全身から力が抜けて倒れ込み、泣いて叫んだ。

 

この瞬間が、

健常者であったぼくの最後の記憶。

 

ぼくの頭の中には、時間に余裕のない学業の中で、地元に帰らざるを得ない日々。疲労困憊する中、まるで機械のように、感情もなく早朝に起き、歩き、電車に乗り、高速バスに乗り、何時間もかけ、また電車に乗り、また歩く。深く考えては身が持たない。ただ機械のように動く事で現実逃避していたのだろう。

 

ぼくは泣く力も無くなった時、この事態を収集させる事が自分の最後の仕事だと感じ、お互いの逆鱗を恐れながらも深夜までやりとりを続け、両者を納得させ、この一件を落ち着ける事ができた。

 

しかしその日を最後にぼくは寝たきりとなり、放心状態で誰とも会話できず、この疾患を負うこととなった。

 

ぼくを巻き添いにした人たちはそんな事は知らない。彼らの知らないところで、ぼくの人生は大きく歪み、その代償は取り返しのつかないものであった。

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少し幼少期の話。

ぼくが小学低学年の頃、ある人が家に来た。

その人はまるで天使のようで、我が家の雰囲気は一気に変わり、一緒に住むことになった。しかし、楽しい日々もそう長くは続かず、その人は天使ではなくバケモノである事が分かってきた。みるみるうちに我が家の秩序は乱れ、彼女 中心の生活に変わった。彼女の怒り叫ぶ声はケモノそのもの。その日から11年間そのバケモノは家にいた。両親は彼女の精神を安定させるために必死で自分の子供達に手をかけられなくなった。ぼくは彼女に両親を奪わらたと考え、彼女を憎しみながら生きていた。彼女ばかり構われ可愛がられる事で、我が家の平和は保たれていたのだ。その中で、子供の方を振り向いてくれない両親の背中をいつも見つめている日々は辛かった。いつか振り向いてくれると信じていたが、とうとうその日はやって来なかった。

 

幼少期のストレスというのは、成人してからの精神に大きく影響するらしい。そんな生い立ちを覚えると、ぼくの疾患もなるべくしてなったのかと落胆してしまう。

 

そして冒頭で少し記したように、ぼくは療養する事になる。学校は卒業できず休学中。必ず復学して卒業する。そして自分のやりたい仕事に就く。療養といって何をしているかと言うと、まずは病院に行き、自分にとって最善の薬を処方してもらい、精神の波を落ち着かせる事。あとは、自由な生活の中で 忘れたい過去を処理し、気持ちを整理し、前向きに生きていく と言ったところだろうか。今は地元からも離れ 幸せに生きています。

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ここまで読んでいただきどう感じたでしょうか。悲劇の主人公になるつもりはありません。蜜の味として愉しみ笑ってもらっても構いません。同情を求めているわけでもなく、ただ、自分の事を文字にしたかっただけなので。

 

各家庭に事情があることなんて当たり前。

ぼくの家の事情はこんなだっただけ。

 

ここに来て 部長に言われた、

「例え茨の道になっても頑張れよ」

と言う言葉が胸に響きます。

 

 

 

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。