てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

他人の不幸は。。。

日本人は、弱い立場の人間が苦労して這い上がる話が好きらしい。

日本人に限らずどの国の人でも好きなのではと思うが そうらしい

その証拠に、そう言った内容の映画やドラマは有名となり人気があるのは確か。

例を挙げればきりがないだろう。

 

日本人がそう言ったものが好きなのには理由があるらしく、日本人の国柄として 共感性が強く、仲間意識のようなものを無意識に持つからのようだ。

そう聞くと日本人が苦労話が好きと言うのは、何も上から目線で見ているわけではなく、むしろ同じ視点に立って応援するような構図が見えてくる。こう言った国柄があるのであれば日本人である事が誇らしく感じるのはぼくだけではないはず。

 

ただ、それを踏まえても なぜ今回の題名で記事にしたかと言うと、これからぼくが書く事に共感し、励ましてほしいとは思っていないから。

 

事実、題名で言っているように苦労話を聞く人だって少なからずいるだろう。

 

それではしばらく綴ります。

最終的な結論として、今ぼくは療養を強いられ少し働き自由気ままに生きている。双極性障害、いわゆる躁鬱病を患い、自分ではなかなか制御できない気分の波に多少振り回されながら。

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ぼくは高校を卒業してすぐ働き始めた。航空機部品を作る会社で設計の仕事に就き、月曜から金曜まで。毎日の残業は会社全体の暗黙の了解。同じ職場で働く技術部の人達はみんな大卒。なぜぼくがそこに選ばれたかは分からないが、自分の願っている仕事に就く事ができた。

少しでも穴埋めをしなくてはと、毎週末 図書館へ行き勉学に励んだ。

 

そして2年半が経った頃、仕事も安定し 力量も認められたのか、大きなプロジェクトに携わるようになっていた。ようやく仕事が波に乗り始めたのだ。そこまでの道のりは決して短くはなかった。

 

しかしその一方、ぼくはもう一度学ぶために学校へ行く志を持っていた。設計課 直属の上司から、ぼくが高卒であることを 勿体なく思われ、若い内に大学へ行くことを熱心に勧められていたのだ。

 

そしてぼくは就職して3年目、退職して学校へ行くことになった。最後の日、技術部の部長からは退職する事を惜しんでもらい、「例え茨の道になっても頑張れよ」と声をかけてくれた。

 

そして他県へ行き入学。

 

しかしその半年後、

ぼくが躁鬱病になるトラブルが起こった。

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とても一言では言えないが長々と書きたくもないので出来る限り端的に。入学して半年後、寮生活でありながらも、毎週末 実家に帰らなくてはならなくなった。理由は身内のトラブルを解消するため。その道のりは車で片道6~7時間。主に電車と高速バスを使い片道9時間はかかった。

学校は寮生活で火曜から金曜まで学校。土曜から月曜までが休みだった。なのでぼくは金曜に学校が終わるとそのまま実家へ向かい、用を済ませて月曜日に寮に戻ると言った生活になった。その間、身内間での争いは激昂し、ぼくは無機質に相手の意見を取り持つ窓口として立たされていた。疲労困憊した身体で、火曜からの学業は始まり、課題をこなす日々。寮生活中にも頻繁に電話やメールが来ては対処し、週末になるとまた9時間かけて実家へ帰る。高速バスを使っていた理由は、車で長距離を運転するほどの体力は行きも帰りも残っていなかったから。

 

そして2ヶ月が経ち、ようやく身内間での争いに終止符を打てる最後の日に事件は起こった。これまで あくまでも窓口として、お互いの意見をお互いに伝えていたぼくに対し、思わぬ形で両者から矛先が向けられたのだ。それはただ1通のメールだった。しかしそこには、ぼくに対する殺意に満ちた内容が長々と書かれていた。親しい父親からの殺意のメール。ぼくを裏切り者だと責め立て、実家に火をつけると脅された。

 

耐えられなかった。既に耐え切れないほどの負担を耐えていたのだ。そのメールを読んだ時、全身から力が抜けて倒れ込み、泣いて叫んだ。

 

この瞬間が、

健常者であったぼくの最後の記憶。

 

ぼくの頭の中には、時間に余裕のない学業の中で、地元に帰らざるを得ない日々。疲労困憊する中、まるで機械のように、感情もなく早朝に起き、歩き、電車に乗り、高速バスに乗り、何時間もかけ、また電車に乗り、また歩く。深く考えては身が持たない。ただ機械のように動く事で現実逃避していたのだろう。

 

ぼくは泣く力も無くなった時、この事態を収集させる事が自分の最後の仕事だと感じ、お互いの逆鱗を恐れながらも深夜までやりとりを続け、両者を納得させ、この一件を落ち着ける事ができた。

 

しかしその日を最後にぼくは寝たきりとなり、放心状態で誰とも会話できず、この疾患を負うこととなった。

 

ぼくを巻き添いにした人たちはそんな事は知らない。彼らの知らないところで、ぼくの人生は大きく歪み、その代償は取り返しのつかないものであった。

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少し幼少期の話。

ぼくが小学低学年の頃、ある人が家に来た。

その人はまるで天使のようで、我が家の雰囲気は一気に変わり、一緒に住むことになった。しかし、楽しい日々もそう長くは続かず、その人は天使ではなくバケモノである事が分かってきた。みるみるうちに我が家の秩序は乱れ、彼女 中心の生活に変わった。彼女の怒り叫ぶ声はケモノそのもの。その日から11年間そのバケモノは家にいた。両親は彼女の精神を安定させるために必死で自分の子供達に手をかけられなくなった。ぼくは彼女に両親を奪わらたと考え、彼女を憎しみながら生きていた。彼女ばかり構われ可愛がられる事で、我が家の平和は保たれていたのだ。その中で、子供の方を振り向いてくれない両親の背中をいつも見つめている日々は辛かった。いつか振り向いてくれると信じていたが、とうとうその日はやって来なかった。

 

幼少期のストレスというのは、成人してからの精神に大きく影響するらしい。そんな生い立ちを覚えると、ぼくの疾患もなるべくしてなったのかと落胆してしまう。

 

そして冒頭で少し記したように、ぼくは療養する事になる。学校は卒業できず休学中。必ず復学して卒業する。そして自分のやりたい仕事に就く。療養といって何をしているかと言うと、まずは病院に行き、自分にとって最善の薬を処方してもらい、精神の波を落ち着かせる事。あとは、自由な生活の中で 忘れたい過去を処理し、気持ちを整理し、前向きに生きていく と言ったところだろうか。今は地元からも離れ 幸せに生きています。

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ここまで読んでいただきどう感じたでしょうか。悲劇の主人公になるつもりはありません。蜜の味として愉しみ笑ってもらっても構いません。同情を求めているわけでもなく、ただ、自分の事を文字にしたかっただけなので。

 

各家庭に事情があることなんて当たり前。

ぼくの家の事情はこんなだっただけ。

 

ここに来て 部長に言われた、

「例え茨の道になっても頑張れよ」

と言う言葉が胸に響きます。

 

 

 

最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

悩みが減った。

悩みがないという事は

人間関係がうまく行っている証拠。

だと思う。

 

もしくは 人間関係が難しくても、

気にせず 堂々と生きている証拠。

もっと色々あると思いますが。

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実はぼく。

はてなブログを3ヶ月離れてました。

 

離れていたと言っても、

1記事書いては離れて、

1記事書いては離れてと言った感じ。

 

申し訳ながら皆さんの

記事をなかなか読めていませんでした。

 

そして、

再度ブログを書き始めると、

これまで書いていた時のメンタルと

少し変化している事を感じました。

 

その変化を一番感じたのは、

下書きとして残していたいくつもの記事に

共感できずボツにしたこと。

 

はてなブログをされている方なら、

下書きにいくつか溜まっていく感じ

分かりますよね。

 

これまで投稿してきた記事を

下書きに戻す事はしませんが、

以前の自分とは考え方に

何か変化があったらしい。

 

少し強くなって余裕のある感じ。

過去の記事が歯を食いしばって必死であったとするなら、、今は自然な表情で空を見ているような…、リラックスした身体でまっすぐ前を見ているような…。

 

うまく表現が出てきませんが。。。

 

悩まず生きられるのは幸せで良い事。

 

昔から悩み事が少ないわけではありません。

むしろぼくの人生は苦悩そのもの。

 

そんなある日、

仕事中にお客さんからこんなことを言われた。

「人生辛いことばっかりや!

    太々しく堂々と生きなかんよ!」と。

 

この言葉が胸に響き、

最初はどう言う意味か分からなかったが、

頭の中で反芻する中で答えが見えてきた。

 

まず、ぼくが控えめで弱々しく見られたから、こう言われたのだから、少々 図々しく自分を出そう。芯のある男になれば良い。そして堂々と。今あげた事を少し幅を持たせて解釈すれば、必然的に堂々とした人柄が見えてくる。何でも受け身ではなく、自分という人間を持って行動する。

 

あまりこんな具体的には考えませんでしたが、自分の中の太々しいを意識していくうちに、繊細で弱々しい自分は薄れていった。

 

そして気づいたら、

悩みっぱなしの自分も消えていた。

こんな言葉は使いたくないけど、何をするにも弱者だった自分から、、強者になる必要はない、せめて人と目を合わせて話せるくらいには成長したように感じる。

 

おじさんがどれくらいの意気込みでぼくに声をかけたが分かりませんが、その人はぼくが精神疾患を持っている事を知っていた。そうなるとまた言葉の雰囲気や重みが変わるかもしれませんが、ぼくは正しくその言葉を受け取れたように思います。

 

太々しく堂々と。

そしてまた一歩先へ早く行きたい。

今はそんな気持ち。

 

少し短いですが、

では今日はここら辺で。

ぼくのコーヒーライフ。

このブログでも

何度か書きましたが

ぼくはコーヒーが大好き。

 

初めてコーヒーを淹れたのは20歳の頃。

 

その日から

ぼくのコーヒーライフは始まりました。

 

遡って話していてはキリがないので、

ここ最近の話から。

 

ぼくの休日は起きてすぐ

何時頃にコーヒーを飲むかを

考えるところから始まる。

 

理想は15時前。

 

そうすると午前中の生活と、

その後半の生活とで境ができ、

 

家事だったり、買い物だったり

趣味の時間だったりの

時間を決めやすくなるのだ。

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コーヒーを飲んでいる時間は特別。

ぼくがこの時間は特別と決めました。

 

一口飲んでひと呼吸。

 

全身の力が

抜けるように全ての息を吐ききると、

 

何かがリセットされ

頭の中が綺麗に整理される

ような気持ちになる。

 

そのあとぼーっと

窓の外を見ることもあれば、

趣味の時間を続けることもある。

 

息を吐き切った後、

力尽きたように椅子の背もたれに

ドサっと寄りかかることも。

 

何にせよこれが

ぼくにとっての特別な時間。

これ以外何もいらないとさえ思う。

 

午前中に全ての家事を終わらせ、

ピカピカのシンクの隣で

コーヒーを淹れられたら最高だ。

 

もしくは、

コーヒーを飲んだ後に、

重い腰を持ち上げ 勢いよく

家事を終わらすこともある。

 

どの道このコーヒーの時間が

主軸となっています。

 

こんな生活どうかな?

 

皆さんの生活の軸は何かな?

 

 

 

ぼくがいつかやりたいのは

外でコーヒーを淹れること。

 

広い草原で

コーヒーを淹れて飲む。

きっと家で飲むコーヒーの

何倍も美味しいはず。

 

誰と飲むかにもよるけど、

とりあえず1人がいいかな。

 

友達といるより1人が好き。

 

友達といる時の自分より

1人の時の自分が好き。

 

 

 

少し話は逸れるけど、、

 

人間関係を気にしなくなってから

生きるのが楽になりました。

悩むことが減りました。

 

これはここ最近のぼくの成長。

なかなか良い感じ。

 

悩みは少ない方が良いに決まっている。

考え事ではなくて悩み事。

 

 

 

コーヒーライフと言えば、

コーヒー屋さんに豆を買いに行く事も

外せない。

 

そしてマスターと語り合うのだ。

 

バーのマスターが色々な人を

見て知っているように

コーヒー屋のマスターも近いものがある。

 

すごく興味深く楽しい話を

沢山持っている。それを知っている人は

少ないんじゃないかな。

 

いつも勉強になったな〜

とか思いながら帰路に着くのだ。

 

 

 

「さて、アイスコーヒー用のブレンド豆を

    買えたので家に帰ります。」

「ではまた明日〜。」

山で楽器を吹いている話。

ちょっと日常的な記事です。

 

引っ越しをしてからもう時期2年。

移り住むたびに一緒に持って行くのは、

高校生の時に親に借金して買った

テナーサックス。

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相棒。とか呼べたらかっこいいけど

実はそれほどの仲じゃない。

相棒というよりは友だちくらい。

 

親に借金をしたと言ったけど、

まあまあ本気の借金。

 

中古車1台は買えるくらい。

安めの普通車くらいかな?

 

そんな事もあって

どこかに置いて行くわけには行かず、

 

結局どこにでも 連れて行き

どこに行っても 吹いているのが現状だ。

 

今まで住んできた所は 住んでいる家の中で

楽器を吹いても良い環境だった。でも、

今住んでいるアパートでは それは難しい。

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初めてだけど

カラオケボックスに行って

吹くようになった。

 

思い切り吹けるのは良いけど

少々周りの音も気になり、

 

何より自分の音がどれくらい

外に抜けているのか気になって仕方がない。

 

けど、

こればっかりは知る方法がないので

まぁ隣の部屋の人たちの声くらいかな?

という気持ちで吹いている。

 

本来吹く場所のない楽器が吹けるんだから

感謝して貸してもらってるけどね。

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しかし そんな中、

民家が近くにない場所なら

外で吹けるのではないか?と、

スマホ片手にそんな場所を探してみると…

見つけた!

 

すごく良い場所。

タイトルにちょっと書いちゃったけど、

山!です。

 

これ以上ない最高の吹き場が見つかった。

そこは登山道の入り口にある駐車場。

 

山のふもとに一部分だけ

アスファルトの駐車場があり

周りは山の木に囲まれている そんな場所。

 

近くに家はなくて、

すこ〜し離れた所に何件かあるくらい。

 

思い切り吹いても

恐らく あそこまでは届かない。

 

家はない場所の方が…、と思うけど

家がないとほんと真っ暗で怖い。

 

そうなんです。

ぼくが楽器を 吹きに行くのは夜。

 

と言うのも、

明るい時間帯は当然のことながら

登山客がいるので吹けません。

 

だから みんなが帰った後。

 

夕方と夜の境目を狙って吹きに行く。

 

電灯はひとつもありません。

もう暗さには慣れたけど、

初めてその場所で吹くようになった頃は

暗すぎて車の中でビクビクしていました。

 

その時は外で吹く勇気がなくて

車の中で窮屈に吹いていました。

楽器を吹くってかなりの運動。

 

高校生の頃ですが

吹奏楽部は室内運動部と呼ばれていた程。

 

主に腹筋なんですけどね。

何曲か吹き終えた時には息も上がり

翌日 お腹が筋肉痛になることも。

 

そんな事もあって、

車の中で楽器を吹いていると

呼吸が苦しくなり、

窓を見れば湿気で曇るくらい。

 

そして

そんな苦しさに嫌気がさした ある日、

外に出て思いきり吸った息を

楽器に吹き込みました。

 

すると、山全体に

サックスの音色が響き渡り

まるで音楽ホール。

 

まるで自分がプロになったかのような

吹き心地でした。

 

その時の感動と快感は生涯忘れませんね。

きっと。

 

そして その時から

山で吹く時は外に出て吹くようになりました。

もし注意されたらその時やめれば良いかなと…

 

引っ越したばかりの時は

楽器を吹く場所も見つからず、

 

いよいよこの楽器も

宝の持ち腐れになるかなと

覚悟していました。

 

見知らぬ地で まさか これまでにない

最高の吹き場を見つけるなんて

思いもよりませんでした。

 

 

 

少し話は変わって、

今月から月に一度プロの先生に

サックスを習うことにしました♪

 

ぼくは何でも独学が好きで、

楽器もそんな感じで続けてきました。

 

もしかすると

ぼくが積み上げてきたものが

ひっくり返されるかも知れませんが、

 

それもまた経験であり、

楽しみであり、人生かなと。

 

いつか 相棒。と

呼べる日が来るのかもしれません。

 

では。

幸せの形は変化する

このてくてく日和というブログを始めて、

幸せという言葉を使って何度か記事を書いてきましたが、今回もそんな事を思いめぐらせながら書きます。

 

自由な時間が許される今だから思うこと。

 

ある人はいつも喜びがあり楽しみがあり幸せに生きている一方、いつも不平不満を呟きながら生きている人がいる。

 

しかし実のところ後者は、気づかないだけで自分が満足するために生きていると言えるのだ。と言うのも、自己満足と言うとマイナスなイメージがあるかも知れないが、いくつかの選択肢を前にして、自分が不満を感じる方を選ぶ人は一人もいない。また、誰かのためではなく、どんな時でも自分の満足している方を選んでいる。しかし、その自己満足を忘れて理解していないと不平不満が募る。そこに他人の意見はなく、自分で決めている事であるのに。

 

自分は自分のことを思い、自分が満足する方を選択し、決定している。

もしかすると、自分が最も望む結果に至ってないかもしれない。しかし、その望みが叶わない中で、1番良いものを選びとっているのだ。自分の選択が、自分にとって最善である事を意識するだけで、今の生活は少し上向きになる気がする。

 

そして、今回のテーマとしている、「幸せの形」である。漠然とした夢として、幸せになりたいと願うのは人間の常である。そんなものは叶わないと、最初から望む事を放棄する者もあるだろうが、幸せになる事はそんなに難しいものではない。

 

自分にとって何が幸せなのか、本当にそれを得れば幸せなのか、具体的な幸せの形に気づくだけで良い。

 

本当に恥ずかしい話であるが、

ぼくの父親は夜食としてインスタントの味噌汁にご飯を入れて食べている時が1番の幸せだと言っていた。母親は料理の得意な人であったばかりに、それを聞いて腹を立てていたが、父親はそんなちっぽけな事に幸せを見出していたのだ。

 

もし仮に、現実的でない幸せを追い続け、疲労困憊になりながら とうとう幸せを得る事が出来ずに苦悩するのであれば、毎晩の小さな楽しみに心満たされ幸せを感じられる人間がいるのも悪くないように思える。

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ここでは幸せと、将来の夢とは区別したい。

少々この2つの性質は異なるから。

 

そして、「幸せの形」としてもう一つ言いたい事は、それは 日々形が変わるものであると言う事。 一年前の幸せが、今も幸せかと言うとそうとは限らない。先月までの幸せ、昨日までの幸せ、大切なのは今の自分が何に幸せを感じているかだ。

 

ぼくはこの事に気づく前 こんな事があった。

金曜の仕事が終わると、いつものドライブコースを走り、途中甘いものを食べながら家に帰って行く事がとても楽しく、あまり意識していなかったが そこに幸せを見出していた。

 

しかし、そんな習慣がある中で、あまり気持ちが乗らない時も、きっと行けばいつもの気持ちになれると行くも、案の定楽しくない。次の週も、その次の週も、これまであんなに楽しかった事が もうそこに自分を幸せにする喜びは無くなっていたのだ。つまりその時の自分が感じる幸せの形が変わったのだと感じた。その後は、自炊する事を楽しみとしたり、ジムでトレーニングする事に喜びを感じたり、自分にとっての幸せは変わり続けた。

もちろん1つである必要はない。

 

これまで幸せを感じていた所に喜びがなくなったのなら、次はどこに幸せを感じられるのか見つければ良い。いつも今の自分にとっての幸せを把握し、知っておく事は人生を楽しむ一つの鍵となるかも知れない。また同時に、最初に挙げたように、基本的に人間は自分にとって満足のいく選択をしている事もベースとするべきだろう。

 

幸せの形は日々変わる。

今の自分にとっての幸せは何ですか?

 

 

 

では今日はここら辺で。

穴に落ちた日

ある日 私は穴に落ちた。
深さは 私の身長の1.5倍ほど。

よそ見をしていたら落ちてしまったのだ。
人通りの少ない路地裏。

 

大きな声で穴から出してほしいと
誰かに助けを求めるのは恥ずかしい。

 

かと言って黙っていては

今日中に家に帰れる保証はない。

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すると

少々くたびれた服を着る

貧しいおじいさんが通りかかった。

 

すみませんと声をかけると、
おじいさんは私に気づき
「助けてあげるから待っていなさい」
と言い残し、1本のロープを持って来た。


垂らされた1本のロープを握ると

心もとなく少し残念な気持ちになった。

 

思っていたとおり。
上でロープを握るおじいさんは

私の体重を支えきれずに手を離し、

私は「ドン」っと穴の底に尻餅をついた。

 

おじいさんは
着ていた服についた汚れを払っていた。

するとおじいさんは「もう時間がない」
と言いってロープを持って行ってしまった。

 

 

 

それからいくらか時間が経ち、

男性の若者が穴の縁を通って行った。

 

背は高くなく細身の若者。

声をかけるか迷ったが、

そうそう人の通る道でもない。

 

通りかかった人には

助けを求めようと決めた。

 

すると

若者は少しの迷いは見せたものの

声を発する事もなく通り過ぎて行った。

 

何の迷いかは分からない。

もしかすると人通りの多い道なら

助けてくれたのではないだろうか。

 

ここで私を助けても

誰からも評価されないのは紛れもない事実だ。

 

最近の若者はこれ程だろうと

心の中で落胆した。

 

1本のロープが残っていれば、

今の若者は私を助けることが

出来たのではないだろうか。

 

 

 

それからいくらか時間が経った。

心の中では体格の良い

若者が通ってくれないかと期待していた。

 

するとスーツを着た

見るからに金持ちそうな髭のおじさんが

通りかかった。

 

私はきっと無視されると

期待せず、彼に助けを求めた。

 

1人目のおじいさんですら

自分の服の汚れを気にしていたのだ。

 

しかし、

私は同じように声をかけると驚いた。


髭のおじさんは一瞬焦るような面持ちになり

迷うことなくこの穴の中に降りてきたのだ。

 

そして 下から私の腰を

一生懸命に持ち上げ穴から出すと、

髭のおじさんは自分の力で穴から出てきた。

 

私は礼を言うよりも先に、

泥で汚れてしまったスーツが気になり

申し訳なく感じた。

 

髭のおじさんは

私の前で土を払う事はせず

感謝を求める事もなく立ち去って行った。

 

私は彼の背中を見つめながら感謝を伝えた。

 

 

 

誰にもみられず、

誰からも評価されない路地裏での出来事。

 

人は人に見られていないと

感情に素直なものだ。

 

その人が何を

大切にしているのか よく分かる。

 

もし通りかかったのが自分だとしたら

何を考え どう動くだろうか。

 

 

 

では今日はここら辺で。

未来は話す言葉で変わる

知人との会話の中で、

 

人の身体は、食べ物で作られ、

人の心は、聞いた言葉で作られ、

人の未来は、話す言葉で作られる。

 

と言う言葉を教えてもらった。

 

なぜこの言葉が出たかと言うと、

ぼく自身 これまでの人生の中で自信と言うものを培うことができなかったと言う話から、変われるきっかけの一つとして、励まし教えてくれた。

 

こんな言葉を自分自身の中から生み出したかったと言う欲も覚えつつも、素直にこの言葉を受け入れる事にした。と言うのも深く納得できたから。

 

自分の言葉を変えると言うのは簡単なのか、難しいのかも その時は分からない。しかし、確実に生き方は変わるだろうと感じたのだ。

 

これは ぼくがやっていた ただの一人遊びであるが、テレビや動画を見ていて、ドラマの俳優さんが言った言葉や、面白い芸人さんが言った言葉を少し真似て言ってみると、一瞬自分ではないような不思議な気持ちになる。

 

これに近いものがあるのかもしれない。

自分の使わないような言葉を続けて使えば、気づけば自分自身の性格や人柄を変えれるのではないだろうか。

 

普段自分の口から出る事は

決してないような言葉。

悪い意味ではなく良い意味で。

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言葉を変えると言うと、一見 漠然としているが、口癖を変えると言うと分かりやすい。たまに出る言葉の枝端を変えると言うよりは、自分自身に最も身近で多用する言葉だ。

 

例えば、

ひと言目 ふた言目には、

 

疲れた。とか、

 

面倒くさい。とか、

 

忙しい。とか。

 

他には、

 

でも。とか、

 

いやいや。とか、

 

どうせ。とか、

 

なにかとすぐに、

すみません。という人もいる。

 

なかなか自分の口癖に気づく事は難しいが、人との会話の中で話す自分の言葉に意識するとすぐ見つかる。そしてその都度 書き留めていく事をお勧めしたい。

 

そして出てきた口癖の中で消極的なものを無くし、前向きな言葉に言い換えるのだ。

ここでは例を挙げないので、各々考えてみてください。

 

でも とか、いや とか、否定から入るのではなく、たしかに!とか、そうかもしれない!と一度肯定してみてはいかがだろうか。

 

いつもすみませんとぺこぺこしている人は、謝る前に本当に謝るべき事なのか。謝る前に、自分の本心を伝える事を意識するのもいいかもしれない。すぐに謝る事は会話を放棄する事なのかもしれない。

 

そして最後に覚えるべきは、継続だ。

口癖というのは多用する言葉、慣れないうちは、使いたい言葉、前向きな発想をする癖をつけるために反復するほうが良いだろう。1日の始めに、自分の選んだ口癖を確認してから家を出る。そして1日を終えた時に、あの時前使っていた消極な口癖を使ってしまったと反省しつつ明日に向かう。

 

一つ注意喚起をすると、

言葉というのは、人から人に移りやすい。分かりやすい例として、子供の使う言葉のほとんどは親から受けるもの。馬鹿という言葉を使う親の子供は、馬鹿と言う。関わる人からとても影響される事。生きる環境が大切なのだ。また、その環境作りが難しければ、注意しながら生きれば良い。

 

ぼくの自信の無さは、消極的で下向きな言葉に全て出ていた。少々 逆説的ではあるが、言葉をかける事で自分の内側を変えてみようと思います。

 

自分の未来は、話す言葉で作られる。

 

 

 

以上。