てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

嫌われてもいいや思考

「生きづらい」

これに対し中途半端な理解は無いと思う。

 

分かる人には心の底から分かり、

分からない人には全く分からない。

 

なんとなく分かるというのは、

おそらく本当の意味で分かっていない。

 

この意味には先天的なものと、後天的なものが有るが、言葉は同じでも、別物と考える。

ぼくがいうのは後天的なもの。

 

アダルトチルドレンに多く見れられ心の状態。

アダルトチルドレンと言う言葉を知っているだろうか。日本名で言うなら機能不全家族。日本語にすれば分かりやすい。家族として機能していない家庭で育った人たちの総称で有る。

 

この言葉には狭義と広義が有るが、ぼくはどちらかと言うと幅のある言葉として理解している。つまり、狭義である親がアルコール依存症や、またはギャンブル依存を含め、独特な家庭環境で育った人たち全般を指している。

 

ぼくはなにを持ってして、自分がアダルトチルドレンと自覚すべきかについての、一つの基準は、社会に出て支障が出るか出ないかだと考える。

どのような家庭で育っても、社会に出た時の生きづらさに生い立ちが関係しているのなら、アダルトチルドレンとしての自覚を持つべきだろう。はたまた、世間一般から見て、育った家族という形が崩壊していても、社会に出て、その闇が支障をきたしていないのなら、特別その自覚を持つ必要はない。

 

またここでは、なぜその自覚を持つべきかにも触れておこう。それは、アダルトチルドレンとしての特性というのは色々な形があり、1つ1つ線を追っては解決が難しい。またそれをするには労力がいる。できない自分を責めることもあるだろう。しかし、自分がアダルトチルドレンである事を知れば、たくさん合った悩みの種がすべて同じ所から出ている事を知れる。

 

そうなれば、自分を責めるのではなく、育った環境が良くなかった事を理解できる。これまで枝葉のことばかりを悩んでいたが、その枝の幹を知り、根っこを知ることができるのだ。

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残念ながら自分がアダルトチルドレンである事を自覚しないまま歳を取り、未だに苦労している人はあまりにも多い。そこには、まだアダルトチルドレンと言う言葉の歴史が浅かったり、日本ではあまり広く知られていないことも理由に挙げられるだろう。

 

かなり話したが話を戻す。

ぼくは幼少期からの「生きづらさ」が、家庭環境にある事を二十歳を過ぎて知った。アダルトチルドレンとしての感覚を簡単に表現したくないが、分かりやすく言えば生きづらい事。ぼくの場合は自分が嫌われることが極端に怖く、万人受けする人物でいなければならないという気持ちがあった。これも言葉にすると安っぽいが、この感覚が常にベースにあり、自分を苦しませてきた。だから自分を出さない。嫌われたくないから。

 

しかしある日、あるコミュニティーの中で自分を出してみた。すると、その事が受け入れられる体験をしたのだ。そこに小さな感動を見出したぼくは、まず自分を出してみる。そのあと受け入れられるか、受け入れられないかは相手次第。そして、受け入れられた環境で、生きれば良いんだと考えるようになった。

 

嫌われてもいい、

好かれる場所で生きればいい。

 

幸いぼくは特別性格の悪い人間でもなかったので、わりかしどこでも受け入れられた。これまで殻をかぶって、とにかくその殻を自ら破らないように生きてきた自分が、いかに窮屈であったかを知った。

 

そして生きやすくなった。

自分を出せるって勇気があったけど、

一度殻を破れば難しいことじゃない。

 

でも一つ。ぼくはこれまでの生き方が身に染み付き癖になっている。おそらく何かをきっかけに、その生き方に逆戻りするか分からない。

 

だから、

その度に、「嫌われてもいいや♪ありのままの自分で生きてみよう!」と反復し、生きていきたい。

 

これまでの自分はどうでもいい。

これからの自分に目を止めたい。

 

以上。