無知の知で攻略
ぼくは高校の時、吹奏楽部の部長をしていた。
大して吹奏楽の有名な学校でもなかったので、部活に入ってくる子は楽器経験のない初心者ばかり。その分指導するのも一筋縄ではいかない。
楽器の指導というのは難しい。一般的なお手本を見せて同じように教えるというのが難しい。
と言うのも、特に管楽器の場合、「口の中を広げる」とか、「舌の位置はココ」とか、「お腹から息を出す」とか、目に見える形でお手本を示すのが難しいからだ。
だから、それを教えるには言葉を選んだり、表現を変えてみたりと、簡単には教えられない。
しかし、誰もがそれをモノにして初心者から一歩進んだ演奏者として育っていく。
そして写真者の次に入るのは中学生の時に吹奏楽をやってきた経験者の子達。
ぼくが手を焼いたのは、初心者の子達しかり、経験者の子達も同様だった。
しかし 同じ手を焼く、でも意味は変わる。
経験者の子達は、初心者の子達より当然であるが上手い。しかし、そのおごりが故に指導に手を焼いたのだ。ひどい子にいたっては指導に対にて、聞く耳を持たない子や、間違いを改めない子も。
経験者の子によくあるのは、間違った吹き方がクセになっていて直せない子や、自分のクセに気付いていない子、自分の間違いを認めない子がいる。これは、どの吹奏楽部でもよくある話。
ここに、この記事のタイトルにある「無知の知」と言う言葉がどれだけ尊いかがよく分かる。
「自分は知っている」と言うプライドは、新しい事の吸収する事を拒み、成長を止める。
その点では、初心者の子達が持つ「初心で自分の無知を知っている子」の方が成長は早い。
これは決して、今あげた例に留まらず、ありとあらゆる場面で役に立つように思える。また、何を始めるにもあえて「自分が無知である」と言う自覚を持つ事で、飛躍的にそのモチベーションを高められるように感じる。
また、今例に挙げたような「自分は知者である」とおごる者の限界も見る事ができたのではないだろうか。
大人になればなるほど、知識が増せば増すほど、この頑なさと言うのは確固たるものになっていく。そこには新しいものが入る隙がなく、頑固親父と呼ばれる哀れな立場を確立していくのだ。
それなら、何でもかんでもとは言わない、学びを深めようとするある分野において「自分が無知である」と言う素直な心ので望む方がどれだけ有利であるのかは、分かってもらえるだろう。
「無知の知」
2400年あまり前のソクラテスの言葉。その意味には諸説あるようだが、文字通り解釈してもその言葉の意味深さを知る事ができる。
この言葉は初心な子供に向けられた言葉だろうか。むしろ、大人であり、年長者であるものに向けての言葉ではないだろうか。
ぼくにとっては少し耳の痛い言葉であるが、「自分の無知」を認めた瞬間、見える世界が変わったように思える。
ある人は、誰に対しても子供の頃の自分から見て5歳上の存在として人を見ると言っていた。
子供の頃から見て5歳上といえば、仮に小学1年生とすると相手は小学6年生。小学6年生の自分から見れば高校3年生。
そこには圧倒的な尊敬の眼差しがあるのだ。
実際は、その相手が年下であっても。その視点を持つと、どんな相手であっても人から学ぶ心が得られる。
そう話してくれた人は、多くの人から学び、医療の事や、建築の事、電気工事の事や生物学の事。信じられない程の知識の幅を持っていた。ぼくにはその人こそ「知者」であるように見えたが、彼には素直さがあった。
ぼくもこんな大人になりたい。
「無知の知」というのは人を格段に成長させる。
ぼくはこの目で確かに見た。