躁うつ病になる瞬間。
今 軽躁のぼくが
書くブログはこれで
最後にしようと思います。
いつもとは違うキャラクターで、とりとめのない話を書いてしまい すみませんでした。
けっこう反省。
pvやら読者やら、普段意識するものではないのかも知れませんが怖くて見れません笑。
でも、いつもよ読んでくださっている方が今日も読んでくださるだけで十分です。
今日は何を書こうか。
せっかくここ最近、自分の病気のことを書いてきたので、少し病気になった経緯を書こうかな。正直 後味の良いものではないのかも知れませんが、どんな形で精神疾患が発症するのか、知っていただいて損はないと思うので書きます。
ぼくが病気になったのは21歳の時。会社を辞めて、もう一度専門学校に入り直した年。授業に加え課題も多く忙しかった。
そんな中、
ぼくの父と叔父が喧嘩した。
父は叔父が管轄するグループの代表。叔父のグループは200人ほど。父のグループは20人ほどだった。
喧嘩した理由は、
父がその代表を辞める事になり、父は叔父にグループを引き継ぐ責任があった。しかし、途中で父は叔父と喧嘩し「金輪際 叔父とは直接話さない!」っとなってしまった。
そして、勝手にその間を取り持つ【窓口】として立たされたのがぼくだった。
その日から両者から頻繁にメールが来るようになるも、窓口の仕事は両者のメールを2人に伝えるだけ。と思ったら大間違い!
仲違いしている両者からのメールは穏やかではなく、ぼく自身が最善の注意を払いながら言葉を変えて伝えるようにした。
父は気性が荒いため、叔父からのメールの要件はメールではなく、直接伝えるようにした。
と言ってもぼくの実家は岐阜。専門学校は長野の軽井沢。月曜から金曜までの全寮制の学業を終えたのち、岐阜に帰り、また月曜に軽井沢に戻るという生活は2が月以上続いた。
車で帰る時は片道5.6時間。
高速バスと電車を乗り継いで帰る時は、
乗り継ぎも込みで片道9時間かかった。
疲労を超えて、半分ロボットのようにスケジュール通りただ動く体になっていた。
そして2ヶ月と少し。
事件は起こった。
叔父から父に、大きな要望が来たのだ。
しかし、ぼくは翌日から新潟へ実習に行く…
「岐阜に帰れない。」
しかし、父が岐阜を出るのは1週間後。
メールで伝えるしかなかった。
そして、
最大限の注意を払いながら、
オブラートに包み、そっと伝えた。
しかし、ぼくは父の逆鱗に触れてしまった。
父から返ってきたのは、殺意、憤り、憎しみ、暴挙に満ちたメール。ぼくには到底受け止めきれる内容ではなかった。
そしてメールの最後に書いてあったのは、
「グループで使っていた建物を燃やす。」
これまで身も心もすり減らし、犠牲を払いながら尽くしてきたものは何だったのか。
窓口として仕事は、あくまで両者のやりとりを円滑に運ばせる事。ぼくはその仕事を果たす事ができなかった。
相手は実の父親。
叔父に対する矛先が完全にぼくに向けられた時の恐怖は忘れられない。
何の涙なのか…
悲しみか、憂いか、恐怖か、嘆きか。
何を後悔してるのかも頭が回らず分からない。
大声で叫んで泣いた。
それがぼくが精神疾患を持つ前の最後の記憶。
2ヶ月にわたる精神的、身体的苦痛によるストレスが積りに積もり、最後そこに爆弾が放り込まれた気持ちだ。ただの爆発では済まなかった。
その瞬間からぼくは放心状態で動けなくなった。新潟での実習、何もできないまま終わった。
泥人形のように身体が重くて動けない。
風邪やインフルエンザの方がまだマシだ。
翌日にはこのだるさは抜けると信じて寝るも、
治る日は来なかった。
その後の生活の事も書けますが、
一つの出来事としてここで締めくくります。
人はこんなことをきっかけにしても、
精神疾患になるようです。
ぼくがこうなったのは
ぼくの心が弱かったからでしょうか。
それなら強い人になりたかった。
だけどそうじゃない気がする。
ストレスを溜めないと言うありふれた言葉は、実は思いやりのある、重みのある言葉なのかも知れない。
そんな事を経て今に至る(^-^)♪
今日はここまで!