愛情は隠し味
せっかくの料理記事なので、
ぼくの作ったご飯を所々に入れてみます。
これは寮生活時代のではなく、現在の一人暮らし中に作ったもの。
美味しい料理に対し、
「隠し味に愛情が入っている」というやりとりを耳にした事はあるだろう。
これに対してどのような意見を持つだろうか。
ぼくのある先輩は
「愛情が味付けになるわけがない」と断言していた。また、ぼくもその言葉に異論はなかった。
しかし、ぼくが実際に人に料理を振る待った時にその気持ちは変わった。
ぼくは一時期、
学校で寮生活をしていた。
寮では当番制で、その日ごとに担当の者が全員分、と言っても15~20人程度であるがその人数分の料理を作る事になっていた。
当然料理のできない人もいたので、料理ができるメンバー、主に女子であるが、担当を任されていた。そこに料理のできる男子も少し加われるのだが、その中の1人がぼくであった。
たくさんの人数分を料理を作ると言うのが、どれだけ大変かは、経験した者にしか分からない。料理レシピの人数を掛け算すれば良いと思った人は大間違いで、食材を切るのはもちろんのこと、とにかく味付けが難しいのだ。レシピ通りを掛け算しても、不思議と味が決まらない。この理由は謎のままであるが、多くの人が言っているので、間違いない。
食事の時間ぴったりに全員分、熱々のご飯を提供するために脳はフル回転。味の調整をすればするほど、舌がおかしくなり、味が分からなくなってくる。また、20人分の食事を全て自分が担っていると感じるとより一層、味付けが迷宮の中に入り込んでいくのだ。
ただ、今となっては良い経験となった。
そのおかげで ぼくの料理の腕が磨かれた。
ただ、大変だったのは覚えている。
そして 本題に戻り、
愛情は隠し味となるのかと言う問いだ。
ぼくはなると思う。
それをどこで感じたかと言うと、調理を始めてから最後までだ。あまり比較にならないかもしれないが、嫌いな人のために作った料理を想像してみれば、そこに間違いなく味の違いが生まれるはず。その差こそ、愛情による変化と言えるのではないだろうか。
「愛情」という言葉に違和感を感じるのであれば、「思いやり」と言い換えてもいいだろう。
ぼくは、食べる人たちのためには手間を惜しまず作る事ができた。「これくらいでいいや」と言う妥協もなかった。その点、美味しい 美味しくないに関わらず、「愛情」が味付けに関わっている事は紛れもない事実であると感じる。
先に挙げた先輩は、
愛情が隠し味にならないと言う意見に対して「科学的にも間違っている」とも言っていたが、屁理屈を言えば、そもそも人間の意思でが無ければ料理すら始まらないわけで、ぼくはそこでも愛情は隠し味になりうると感じた。
仮に自分の為であったら、そこまで手の込んだ事はしないが、それが人の為でがあるからこそ、妥協せず納得のいく味にまで調味する事ができる。
ただ、愛情が味を保証する者ではない事は理解していただきたい。愛情があっても塩と砂糖を間違えれば美味しくない。
また 同時に、食べる側も、料理した人間が時間をかけて作ってくれた事を覚えて食べてもらいたい。
以上、愛情は隠し味になるという話でした。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
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