てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

自然体で人に甘える

これはぼくのメモ機能にはるか昔から残されていた言葉。当時誰との会話で聞いた言葉なのかは覚えているけど、文脈が思い出せず、言葉の意味が分からない。なんとなく恋物語のような雰囲気があるが、決して恋愛話ではなくて、そこそこ固い話だったことは覚えている。

 

なので今回は、この言葉の真意をたどろうと思う。その答えが、当時出たこの言葉の意味と一致するかは分からないけど、今、自分で納得できればそれでよし。

 

まず初めに「自然体」と言う言葉。これはここ最近、一部では注目されていることのように思える。周囲に過敏過ぎる人や、人の目を気にしてしまう人たちには、「自然体」で生きる事の魅力が伝えられている。これは、無意識にできる人と、意識しなければできない人がいるように思える。ぼくは好きな言葉。

 

しかし一方ではこんな事も思い出す。

「自然状態」

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これは、政治による統治のない世界で、人間たちがどういう状態になるのかを考える言葉。

少し話は逸れるが、そこには、人は生まれながらにして清く善い存在とする性善説と、人は生まれながらにして罪を持ち悪であるという性悪説がある。

 

ここで、そんな話をするつもりはないが、思想家たちは、この自然状態を想像する時、性善説を肯定し、争いのない世界が実現すると言う者もあれば、性悪説を肯定し、個々の欲求に任せて争いのある世界になると想像する者もいる。

 

改めて「自然体」の話であるが、性善説と性悪説は別として、もう少しフランクに話を進めたい。

 

また一方で甘えるというのは、一言で言えば相手の好意を受けられるように促すと言える。

ここには下心のない自然体という言葉とは、少し相反する一面を見る。

 

ぼくは人に甘えることがすごく苦手。しかしこれもまた、無意識と言っていいレベルで得意な人間たちもいる。正直すごく羨ましく、自分で甘える事に挑戦する時は、緻密に計算し、そのように促す。しかしそんな時は決まって罪悪感が残る始末だった。しかし、甘える事は悪ではない。いや、良く使う事も、悪く使う事もできると言えよう。

 

では今回の「自然体で甘える」と言った時には、おそらく悪い意味での甘えるでない事は確かだろう。下心のない甘え。

 

ぼくはそこに、自分の実力を認め、自分では手に負えない状況の中で、正しい判断として、他者に協力を願い甘える姿勢が見えてくる。

これなら良い意味での甘えだろう。

 

こうなると性善説と性悪説は関係のない話のようにも思えてくるが、そこは吟味したい。

 

人は普段生活する中で、自分が生まれながらの善人なのか、悪人なのかは考えない。もしそれが、自分個人だけの話であるなら、気になるが、世界約80億人の話であるなら興味もない。

もし仮に善人である事を自覚した生活と、悪人である事を自覚した生活があるのなら、自分の行動における自己肯定や自己否定の違いが生じるのではないだろうか。

 

そして、甘えという選択肢は、決して自分が善人ではないという自覚の中で生まれるように思える。下心のない自然体で甘えると言った時には、自分自身に対する過小評価ではなく、謙虚さや謙遜の範囲内で、他人の力を求めると言うことになるだろう。

 

「自然体」背伸びもせず、自己嫌悪にも陥らない、健康な姿。その等身大の自分を正しく認識し、自分だけの力では解決できない問題を前に、人に助けを求める。ここには甘える勇気と力も必要だ。

 

もう一度「自然体で甘える」と言う言葉をまとめると、まずは自分の自然な状態において、自分のできる事できない事を把握し、自分の手に負えないことは、あまり気負ったり、無理したりせずに、素直に人の助けを求める姿が見えてくる。ここから得られる教訓は、自分の力量の再確認。また、必要な場面では、人に甘えると言う選択肢を持つ事。

 

いかがでしょうか。

個人的には少々無理矢理な感じがするが、考え方が変わった時には、もう一度記事にして書き起こそう。

 

では今日はここら辺で。