てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

自分を知り他人を知る

これは文字通りのことであるが、その意味が分からない人が多い。簡単であるがこそ、そこに深い真実がある事を見出せない。

 

ぼくはこの言葉が好きでしばしば自分の内で反復する。他人を知る上で最も近道なようにも感じる。ではこの言葉はどんな場面で活躍するのか。

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人間というのは一人一人個性があり、得て不得手があり、好き嫌いがある。そこには感受性の違いや感覚的な違い、価値観の違いもある。

世界には約80億人という数が存在しながらも、全く同じ人が存在しないと言うのだから驚く。それは過去に生きた人たちにも、この先生まれる未来の人間たちにも言える事。

 

しかし、

 

矯正されていない自然体の人間の中には共通した特性もあり、一般論としてまとめる事ができる。

 

あまり一般論という言葉が適切とは思わないので感覚的に分かってほしい。

 

色々書いたが言いたい事は一つ。

他人の事を知りたいなら「自分ならどうか」を考える。先に挙げた例で言えば、一人一人個性が違えど同じ人間、違いはあれだ似たような部分が多いのだ。

 

例えば自分の服装だったり。

人と会い家にかえると、靴は履いていたものの靴下の色がチグハグだった。これは本人にとっては絶望的で、この世の終わりかのような気持ちになるが、本当に相手の人がその事実に気づいたかどうかは定かではない。そんな時に「自分ならどうだろうか」考えてみると。

 

「自分は今日会った人の靴下の色を覚えてないどころか見た覚えもない。」そう言う事。

そうなると相手の人が自分の靴下を見て、靴下のチグハグに気づいていた可能性と言うのは限りなく0に近づいてくる。

 

他にも、

画面のついたスマートフォンを机の上に置き席を離れてしまった。その時開いていた画面はあまり人に見られたくないものであったが、確かにその周りには人が動いていた事は確か。

 

そんな時にも自分を見つめてみる。

 

特定の人の席に置いてある画面のついたスマートフォン。そこに本人がいないにせよ、立ち止まってスマートフォンを覗き見ることはしない。もしかするとそんな人もいるかもしれないが、これも一般論で捉えたい。

 

 

 

自分ならどうだろうかと言う想像力は、自分を知ると同時に他人を知る事に繋がるのだ。自分がどのくらいのひねくれていようと、おおよその一般論を考察するのに苦労はしないだろう。

 

この考え方ができるのは、1人の人としてレベルが上がるようにも感じる。対象が自分であれ他人であれ「想像力」というのは大きな武器。

普段の人間関係においても、社会生活として技術を求められる時にも。

 

ニーズに気づくというのは

想像力無くしては闘えない。

 

とにかく色々な場面で

こんな風に考えてみてほしい。

 

「あの時どう思われたかな…」

『自分ならどうでもいいと感じるか』

「それなら相手もそのぐらいにしか思ってないか」とか。

 

「あの人はいつも遠くの階段を使う」

『ここの階段が急なのか』

「ここにスロープを作ろう!」とか

 

「いつも差し入れくれるな〜」

『自分がその立場なら多かれ少なかれお返しが欲しい気持ちにになるな』

「よし!お返しを持っていこう!」とか

 

ぼくの中では迷わず判断に起こせる基準になっている。もちろん内容にもよるけどね。

 

100%正解ではないけれど、

相手の心が分かるのは凄い事。

 

あと付け加えるなら、

少し丁寧に生きる事かな。

 

相手の気持ちを理解するにも、

そのあと動く自分の動作や判断するにも、

ぼくは意識している。

 

 

 

 

 

では今日はここら辺で。

実は1週間ブログを休んでしまいました。

体調不良が原因でしたが良くなりました。

 

あと少しで100記事。

がんばります。