怒りが消える
親の不注意で歩けなくなった。
不注意と言っても、なにかしらの障害が出ると分かってたんじゃないかな。
そして少しずつ体に異変があった事にも、
気づいてたんじゃないかな。
親への不満は最初、何もなかった。
でも、歩けない不便さや、他の人とは違う苦しみが深まるにつれ、不満だけじゃなくて、怒りや、憎しみもふつふつと湧き上がってきた。
ただ 皮肉なもんで、親をどれだけ憎んでも歩けるようにはならない。それでも親を妬ましく思ってしまう。どこか、そこに自分の正当性を見出していたのかも。間違った事はしていない。
いったい どれだけの時間、この感情の中をさまよっていたのだろう。どこか自分でも無駄なことをしていると気付いていた。でも、親の不注意と自分の身体に起こった事が受け入れられなかった。
ある時は大声で叫んで物に当たった。木製バットで地面を殴った時には、バットが折れ、折り畳み式のベットはぐにゃりと曲がった。しかし、当然 物に当たってもスッキリしない。なんせ根本的な解決はそこにないから。当然 ぼくの怒りはバットに対してのものではなかった。
しかし そんなある日、冷静になったぼくは、現実がどうなれば自分はすっきりするのかと、これまで意識していなかったゴールについて考えてみた。
そして1番最初によぎったのは、親も同じ目に遭ったらスッキリするのか?と言う事。しかし、ぼくが願うのはそうではなかった。ぼくの願いは自分が歩けるようになる事。ぼくは自分の怒りと自分の目的の間に、微かな矛盾を見出すことができた。
その瞬間、親を憎むなんて時間の無駄。自分自身も嫌な気持ちになるだけだと確信した。
そう思えた瞬間 なんの恥じらいもなく
「自分も立派な大人になった」
と感心してしまった。
ぼくの怒りには目的がなかったのだ。
そして、その時の自分に残されていたのは、何とかして、この不自由受け入れ、歩く練習をする事だった。
繰り返しになるが親を憎んだって、自分が歩けるようにはならない。そんな時間があるなら、少しでも自分にとってプラスになる事をしようと決めた。
そして、練習を繰り返す内に、色々な感情が芽生えた。悪い感情ではない。自分で自分を受け入れられた事で胸がすき、清々しい気持ちだった。自分が今、前向きに歩んでいる喜び。やはり、自分の中の好転的な変化は気分の良いものだった。
実は、親はもちろん兄妹ですら、ぼくが歩けなくなっていた事を知らなかった。もしかするとちらっと耳にしていたかも知れないが、少なくとも気にしてはいない。いつか会う日までには、何食わぬ顔して、歩けなくなっていた事なんて気付かれないようにしたい。
これはぼくの心の話。
今ではすっかり歩けるようになっている。ただ、ぼくの足はまだ成長の途上。どんな困難でも自分の足で乗り越えていく力があると信じてる。
今のぼくに怒りはない。
もし1つの怒りが芽生えた時、自分が願う目的はなんだろうか、自分の願う結果に向かうものなのだろうか、一度冷静になってみる。バットを折ったぼくが言っても説得力はないかもしれないが、怒りのコントロールは、ただ一人、自分の頭の中でどうにでも変えられる。矛盾が見つけられたなら、自分の願う道に軌道修正して再スタート。
一人の人間として、
その出来事は大きな糧になるだろう。
その積み重ねが大人から大人へと成長させる。
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