体罰は 有り寄りの無し
よく体罰や虐待のニュースを見る。
ぼくは継続的な体罰は学校でも家でもするべきではないと考える。近年、学校での体罰や、家庭での行きすぎた体罰が虐待となるなど、珍しいニュースではなくなってきている。
体罰と言う言葉が使われるのは主に学校、家庭、またスポーツなどの部活動の場が対象となるだろう。
まず、ぼくが思うのは部活動ではいかなる形であっても体罰はあるべきじゃないと感じる。それは生徒の成長は顧問に一任されている部分もあり、生徒の力量と顧問の指導は多かれ少なかれ比例する。
だとすると、生徒への不満を生徒にぶつけると言うのは、どこか矛盾している気がする。顧問のストレスの発散のための体罰はあまりに大人気ない。
次に家庭と学校について考える。
始めに継続的な体罰と表現したが、逆に一過性の体罰もあると考える。要するに 日常的に体罰を繰り返すのか、ある特定の場合において体罰をするか。
しかし、継続的な体罰は子供の成長を大きく妨げてしまう事を覚えなければならない。
あるアフリカの郊外にある村では、体罰は文化というレベルで、教育とセットになっていた。その結果、ある日本人が体罰を無くすべきと声を上げた時、子供たちは既に体罰無くして言う事を聞かないようになっていたようだ。これは悲しくも子供の方から上がった声だった。つまりいき過ぎた継続的な体罰は、体罰が無いと人に従えない子供を育ててしまうようだ。
また、その村の子供達に共通して言えた事。それは自らの意思で行動を起こせない子ばかりだった。体罰によって脅されなければ行動を起こせない子供達は、自主性を損ない、自分を持たない人間になる。
今あげたのは極端な例かもしれないが、もしそのような結果をもたらすのであれば、やはり体罰は少ないに越した事はない。また、今の事例は学校だけでなく家庭においても十分適応させる事ができる。理由は全く同じだ。
しかし、一点 学校と家庭で大きく違う点を挙げるならば、それは責任の大きさだろう。学校における生徒に対する責任と、親が子供に対して負う責任とでは少し質が異なるように思える。
教師が子供に対して負う責任は、せいぜいその生徒が入学してから卒業するまでのわずか数年。しかし、親と子の関係は一生続く。
ぼくはここまで、体罰は否定派のつもりで記してきたが、家庭においてはやはり体罰が必要な場面もあると感じる。
ぼくはこれを一過性の体罰と呼ぶ。例えば、命を落としかねない危険な遊びをしている子供に、言葉だけではその危険を伝えるのは難しいと判断した時、手をあげて教えることも必要だ。他にも様々な場面があるだろう。
現在、体罰を罰するための法律が定められた。親の体罰によって子供が亡くなる事例が増えたからだ。その時親は決まって「体罰,虐待ではなく、しつけだ」と言い、法が介入できない面があったからだ。
確かに法によって親の躾が阻害されるのは好ましくないが、少なからず親に対する啓発の意も込めて、法が定められたのは良い事だろう。それによって、いき過ぎた体罰が虐待となる家庭に自治体が介入しやすくなったからだ。
体罰を受ける子供側の問題か、体罰を与える親側の問題か。どうしても体罰が必要となる場面は、限りなく少なくなる気がする。
それでも日本では体罰容認派は多く、人口の6割を占める。ぼくがいま記した事を読んだ方は何を思うだろうか。
冒頭で記した、アフリカのある村の子供達の姿を見ると、決して彼らを見放すわけではないが、やはり体罰はないに越した事はないように思える。
ぼくが言う「有り寄りの無し」の意味も汲み取っていただきたい。
ぼくは継続的な体罰と一過性の体罰と表現してみた。不当な苦しみに遭う子供達が一人でも減りますように。
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