てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

寂しさの価値

ぼくは人生において、「寂しさ」を経験する事に価値があるかまだ答えを出せていない。

この記事を書き終える頃に、1つでも2つでも答えが出ていたら満足。

 

少し調べると寂しさの正体とか、解決方法が書いてあるようだが、とりあえず自分で考えてみる。

 

この質問の答えとして、今後の寂しさに耐えるため、と言うのは答えにしたくない。その価値が今の自分に対してどのような作用があるのか。それは、現実と少しズレるようにも思えるが、こんな感じで話を進めたい。

 

この質問をすると、

悲しみは必要か、喜びは必要か、悩みは必要か、希望は必要かと言う質問が生まれてきそうだ。これらを並べてみると、負の感情のない世界があったらどれだけ幸せだろうかと思う。

 

悩みもなく、苦しみもなく、涙もなく、憂いもない。そして寂しさのない天国のような場所。

 

逆に、悩みばかり、苦しみばかり、絶えず憂い、涙が絶えない。そして寂しさのある場所。

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ぼくがこの二つの世界を見比べて感じたのは、どんな人間が育つかだ。決して楽な暮らしをする人が悪いとは言わないし、むしろ羨ましい。しかし、そこと対比して苦労を経験している人を置くと、人間味に欠ける気がするのはぼくだけだろうか。

 

前者の世界で学べる事、

後者の世界で学べる事がある。

 

もしかすると、前者の世界で多くを学び、後者の世界で学ばない人や、前者の世界で学ばず、後者の世界で多くを学ぶ人もいるかもしれない。

 

いや、この2つの存在を知っているからこそ、それぞれの場所で人は学ぶのかも知らない。前者があっての後者であり、後者があっての前者。

 

寂しさと言うのは、孤独と言い換えられるだろう。間違っていたら申し訳ないが、ぼくはそう感じる。

 

ではこの極論の2つの世界ではなく、

今生きる世界で比べてみる。

そして、寂しさを考えてみる。

 

言うまでもなく、この世界には前者と後者の両面がある。そして寂しさと言うのは、この2つのギャップによって生じる感情のように思える。

 

そうなると明確な解決策として、もう一度、天国のような世界に戻ることが挙げられる。その方法がどのようであれ、何かしらの逃避をしなければ、後者の中で寂しさから逃れる事はできない。

 

 

 

単刀直入に、

寂しさを経験し人は何を学ぶのだろうか。

 

その解決が、

人に依存するものなのか、

ものに依存するかによっても変わるが、

 

理想を言うのであれば、人にではなく、物に依存し、寂しさを処理し自己完結するのが得策だろう。いや、この世の中の人はそうやって生きているのだろう。

 

寂しさから学ぶ事は、、

ひとりで生きていく力だろうか。

 

そうなると寂しさと言うのは、人を大いに成長させるチャンスであり、そのような価値があるのかもしれない。

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自立とは、他人の力を借りずに行動できる事。

厳しく言えば、自立しているように見えても、他者に支えられているのであれば、自立とは言えない。そこには日常的な意味と社会的な意味がありそうだが、どちらにせよ同じだ。

 

ぼくは自立している人を見ると尊敬する。動揺せず物事を遂行する。社会経験の中でそのような人とはいくらでも出会ってきた。

 

今ぼくの頭の中でまとまりつつある考えは、

寂しさをひとりで乗り越えられるようになって、人は初めて自立した大人になるのかもしれない。寂しさを不安と言い換えても良いかもしれない。不安を自分で解決する力。かな。

 

ぼくはこの記事を書きはじめたときは、「寂しさ」はないに越した事なく、避けられるのであれば一生感じたくないとさえ思っていた。しかし、人は「寂しさ」を乗り越えるたびに、自立へと向かわせるという大きな役割があるのではないかと感じている。

 

これが「寂しさの価値」なのかもしれない。

勝手にぼくは答えを見つけた気がする。

 

皆さんはどう思いますか?

ぼくは次 寂しさを感じる時にこのことを思い出したい。時には人と関わりで逃れられるかもしれないが、人は人。その人がいなくなったら骨抜きになってしまう。そうならないために、自分の力で自立する。

 

最終的には何かしらの方法論になる気もするが、それでいい。その方法を大いに用いて一人で寂しさを乗り越えていく。

 

 

ある人は「自立とは依存先を増やす事」と言った。これはまた別の記事に書こうかな。

 

寂しさは人を自立へと導く価値がある。