幸せという基準
自分が不幸になる選択は普通取らない。かと言って、自分の選択が必ずしも幸せになるとも限らない。
しかし叶うなら、自分の選択が全て幸せにつながるのさものであってほしい。
ぼくならそう思う。
小さな話。
「今日は特別。疲れたし、コンビニで食べたいものを好きなだけ買おう」なんて思った事はないだろうか。「おやつはいつも1つだけにしてるけど、今日は2つ買おう」も然り。
しかし、いざ帰って食べたい物を好きなだけ食べた時に、お腹こそ膨れたが、思ったほどの幸福感が得られないり。贅沢をしたつもりが、思ったほど満足感が得られなかったり。
他にも、「ちょっと高いけど買おう」と思い切って買った物が、思っていたのとは違ったり。自分へのご褒美のつもりで買った物が、思うような効果を得られずストレスを感じたり。
むしろ、自分の選択が幸福に直結する事は少ないのかもしれない。ここ最近、どんな時に幸せと感じただろうか。意識していないだけで、実は得られるはずの幸せを逃している事が結構あるように思える。
その原因の一つとして、衝動的に行動にあると推測する。先に挙げた例は、全て衝動的な判断と言えるだろう。
あえてこの事例を失敗という表現をする必要はないかもしれないが、自分の欲求に従い、幸せになるはずが、思っていた幸福を得られなかったという点では失敗と言って良いだろう。
では、今後どのようにしてこの失敗を避けるべきかは既に答えが出ている。それは、衝動的な行動をなくすと言う事。
ではわざわざ、買い物をするたび、行動を起こす度、いちいち吟味するのかと言うことになるが、ぼくはいちいち吟味するようにしている。
吟味すると言っても、5分も10分も考えるわけではない。一番初めに挙げた例に当てはまるなら、「これを買って、この後これを食べ、おやつにこれを食べる。この時に、おやつが2個あった方が幸せか、それとも、無理に食べることになるなら1つで良いか」くらいの事である。
「衝動的」と言うのは、よく考えないで行動する事。せいぜい長くても1分考える時間を作るだけで、衝動的な買い物ではなく、計画的な買い物へ、衝動的な行動から、計画的な行動へと変わり、格段に幸福を得られやすくなるのだ。
今は主に買い物を例に挙げたが、例えば気が晴れない時、思いつくままにドライブに出かけるも、気が晴れないまま帰宅したと言う経験はないだろうか。
友人と会って悩みを打ち明けるも解決がなく、モヤモヤに加え理解してくれない友人への不満を感じてしまった経験はないだろうか。
行動する前に少しその後の自分の姿を想像できていれば、無駄な行動を取らずに済んだはず。むしろ、上手に自分のストレスを解消できていたはず。
ぼくは極力 衝動的な行動はしないように心がけている。なぜなら、今挙げたような失敗を経験し、その度に感じる無駄な時間を過ごした気持ちと、余計なストレスを感じていると気付いたからだ。
何か物を買うときも、家で自分がその道具を使っている姿をシミュレーションし、幸せかどうか考える。人と会うときは、どのような会話が起こりそうか、その人ならどのような切り口で話に乗ってくれそうかを想像する。
その結果、ぼくは行動を起こすたびに着実に幸福を得る事ができている。
衝動性というのは、本能的に良い結果をもたらす場合もあるが、日常生活の中でわざわざ一か八かのリスクを取る必要はないだろう。
それなら、1分考えて、衝動的な行動を計画的な行動に切り替え、幸せを確実に得られた方が得策ではないだろうか。
自分が、幸せという基準で行動する時、ある面自分を大切にしているような感覚になる。衝動的な乱暴さではなく、計画的な丁寧さ。
その先に、笑顔はあるか。
ぼくは何気ない日常に、
いつも幸せを感じている。
自分の選択に満足している。
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