てくてく日和

Fiction&NonFiction 20代男一人暮らしの趣味ブログ

人生で1番の恥はなんですか?

今回の記事で102記事目。

毎日投稿を終えて、少し休み気味でしたが、

またぽつぽつ更新していこうと思います。

 

ブログを休んでいる間も たまにpv数を見ると、沢山の方がまだぼくのブログに立ち寄ってくださっている事を知り、そんな事も覚えつつ。

 

今回の記事のテーマ。

これは とある海外の動画のネタとして使われていたもの。この質問に答えるのは男性に限られており70人、7.8歳の子もいれば、髪の白いおじいさんまでもが参加し、次から次へと画面が切り替わり男性の方達が答えていく。

 

「人生で一番恥をかいた経験は

   どんなことですか?」

 

皆さんがパッと

思いついたのはどんな事柄でしたか?

 

ここに参加する70人の男性。当然の事ながらその答えは十人十色。似た経験があっても、全く同じ経験はひとつもない。

 

しかし、

その中で全く同じ答えたをした人が8人いた。

 

その答えは何だろうか。

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それは「無い」 という答え。

 

ある人は、人目を気にしないから。ある人は、恥をかいても笑ってその場を切り抜けてしまうから記憶に残っていないと続けた。

 

ここでは恥じる経験の有無や、その是非を問うつもりはないが、何かここには大きな隔たりがあり、ある少数の人たちだけが、あちら側にいるように感じた。

 

恥の経験というのは人の目を意識する事と直結する。そうであるならこの2つの違いは、人の目を意識する者とそうでない者の違いだ。

 

恥の経験 云々ではなく、この2つの違いを前にして皆さんはどちらを好むかと言えば、人の目を意識しないで済むのなら、そのように生きたいと願うのではないだろうか。

 

実のところぼくの回答も、

「無い」であった。

 

しかし、もしこの話が1年前の自分に伝えたのであれば、間違いなく最低でも5つ、、制限がないのであればいくらでも出てくるような人間であった。

 

あくまで是非は問わないと言ったが、どちらか好みを言う自由はあるだろう。少し自分自身の話をする。

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ぼくはある時から、人目をほとんど気にしなくなった。そこにはオリジナルの考え方がある。

人は案外、自分のことなら恥じるのに、他人の事となると さほど気にならないことに気づいた。「そんな小さい事で恥ずかしがってるの?」とついつい思ってしまうほどだ。

 

そしてその考えを自分にも適用してみたのだ。

あまり主観的にならず、自分が他人を見るように自分を見てみる。客観視して見ると、先ほどと同様に、事の大きさは自分で体感してるほど大きなものでないことに気づいた。

 

これはほんの些細な一例であるが、

ぼくはある式典に参加し、そして式典が終わり着替えていると、靴下の色が左右違うことに気づいた。すると今日1日の出来事、出会った人 全員に対する羞恥心と、取り返しのつかないもどかしさに苛まれた。式は終わり 誰もいない一人の部屋であったが、穴がてあったら入りたい気持ちでだ。

 

しかし ふと思った事、それは

もし仮に今日会ったAさんの靴下の色が違ったとして、ぼくがそれに気づくかと言うと間違いなく気づかない。そもそも見てもいない。いや、Aさんに限らず、その日会った全ての人の靴下など、見た記憶は1度もなかった。そしてぼくは安堵し、そうであるなら、おそらくぼくの靴下を見た人もいないはず。せいぜい見た人がいても見ず知らずの1人か2人だろうと思うと、先程までの羞恥心は跡形もなくなり、平常心に戻った。

 

そんなことを知ると、途端に色々な場面でも人の目を気にしなくなった。もし見られててもすぐ忘れてくれるでしょ、と。

 

ぼくがあの人の

恥を覚えていないように。

 

あの人もぼくの恥なんか

覚えていないだろうという思考。

 

人の目を気にする人生と、人の目を気にしない人生があるなら、ぼくは後者を選ぶ。

前者は自分の行動を制限する事であれば、

後者は制限なく自由に生きられる。

 

「無い」と答えた人たちが、本当に恥ずべき経験をしていないのかと言うと、決してそうではない。その出来事を恥と思うかどうかだ。

 

ここでは、今後恥をかかないように生きる事ではなく、全ての経験を恥としない生き方があるという事を覚えたい。

 

ぼくは恥を忘れて、とても自由人になれた気がする。そこには「何が起こっても自分は自分」と言う、土台があるように感じる。

 

こんな生き方もあるみたい。

今日はここら辺で〜。

強くなったと感じる事

今のぼくは、


最低限の収入分だけ働き、


週4日ないし5日は休息の日としている。


 休みの日は大きく息を吸いながら、


時間の流れを感じつつ、


自分の療養に満喫している。


 


しかし、

療養の中身は幅が広い。

 

身体的障害、精神的障害にとどまらず、

自分自身の中にある繊細で脆い心、人目に怯える気持ち、一喜一憂しては、周りの物事に振り回される生き方も好きではなかった。どんな出来事があっても動じず、波風が強くても、いつも凪でいられる心がほしかった。

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そして、療養を始めて1年と半年、気づけばこれらの問題の一つ一つが解消されている事に気付かされた。思いもよらない事実に驚きながらも、今生きている自分が、かつての弱い自分ではないことを確信することができた。

 

そこには限られた社会との接点の中で、常に自分の心と、人の心を対比し意識し続けていた事が理由かもしれない。人が人を動かし、人が人に従う。口から出る言葉とその人の気持ちを見続けていたかもしれない。一人一人に興味を持ち、何を考え、どのような感情を持つのかを見ていたからかもしれない。

 

社会的な地位は無視してはいけない。

しかし、そこにいるのはただの人。

 

気づけば 無意識の内に誰かの言葉が、頭の中をぐるぐると回ることは無くなった。社会的責任は無視してはいけない。しかし、そこに責任がないのであれば、気にする必要はさらさらない。

こんな事を考える中で、自分の悩みのほとんどは対人関係である事に気付かされた。そして、その悩みが、悩む必要のある事かを考えると、大抵のことは悩むに値しないことばかりだった。もう一度言うが、気にする必要のない事は忘れるに越した事ない。このことは後でもう一度触れよう。

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そして、一喜一憂する生き方だ。

ぼくはこれを子供のような生き方だと考える。良い出来事があれば自分を忘れ喜び、悪い出来事があれば、全てを投げ出して苦悩する。これは極端な例であるが、これに対し、喜びがあっても、苦しみがあっても平常心のある人間は強いと言えるだろう。ぼくはそう思う。

 

それを乗り越えるために、ぼくが感じたのは期待しないことだった。少し消極的な印象を受けるかもしれないが、期待するから喜びは大きく、期待するから失望も大きくなると言える。決して、喜ぶな、悲しむな、と言っているわけではない。その度合いをコントロールする事に意義があると考えている。

もしかするとこの考え方は、喜びへの対策というよりも、悲しみを最小限に抑える事にフォーカスが当たっているのかもしれない。

期待せず最悪の場合に備える心こそ、どのような事態にも対応できる平常心を保つ事ができるのではないだろうか。

 

そして最後に、

嫌な事を忘れられるようになった。

これはある程度、自分を見つめたことのある人なら、形はどうであれ、考えたことはあるのではないだろうか。よく言う、忘れたくても忘れられない、と言うやつだ。嫌なことを忘れられたら、どれだけの人が幸せに生きる事ができるだろうか。

これについては、方法論として自分がしている事を話す。それは、ぼーっと空を見上げ、忘れたい事をぼんやりと思い出しながら、大きく深呼吸をする。ぼくはこのようにして嫌なことは忘れている。騙されたと思ってやってみてほしい。朝焼けでも、真昼でも、夕焼けでも、夜空でも、同じ気持ちがあるのであれば選ぶ必要はない。

 

至って簡単な事であるが、この記事を読んでいる方々で、1度でも空を見て深呼吸した人は何人いるだろうか。ぼくは空を見上げるのが好きだ。理由は分からない。しかし、大きな空を見ていると、小さな悩みはどうでも良くなるのかもしれない。ぜひ試してみてください。そして、他にも方法がある人がいればコメントください。

 

ぼくの目標は、

繊細でもろい自分から、

太々しく堂々と生きる自分へと変わること。

 

では今日はここら辺で。

この記事で100記事 達成!

2月3日から始めて80日以上

毎日19時投稿をしてきました。

 

とても楽しく、

自分の人生の中でも

輝かしい彩りとなりました。

 

日々自分の頭の中を整理し、言葉としてアウトプットする日常は、人に向けて書くブログと同時に、自分自身にも向けられた良習慣となりました。

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80日を超えた時、激しく体調を崩してしまい、ブログの更新が途絶えてしまうこともありましたが、ブログを始めた当初の目標である100記事を達成することができました。

 

記事の内容には賛否両論となる記事もありましたが、人からいただくコメントからさらに教えられる事もあり満足です。

 

ブログを書く前と後。皆さんは自分自身に

変化があったと感じますか?

 

ぼくはあったと感じています。

具体的な内容を羅列して突っ込まれるのは恥ずかしいので控えますが、少なくとも、1日1500字のブログを毎日更新したと言うのは、自分への自信にも繋がりました。

 

またどんな内容であれ、1500字にまとめるために、膨らませることもあれば、絞ることもあり、それらの作業も自分の実力が試されているようで楽しかったです。

 

また、多くの人からいただくスターの数や、コメントからも、100%ではなくても自分の考えが受け入れられていくと言う喜びもありました。

 

実際に何人の方が読んでくださっているのか分かりませんが、1人、最初から最後まで読んでくださる方がいれば満足です。

 

話は変わりますが、

1人の人が何冊も本を書くと言うのはすごいなぁと感じました。

と言うのも、

ぼく自身が書いた100記事の根底には、揺るがぬぼくの考え方がある。しかし、1記事1記事ではその記事 特有の考え方や、他の記事との区別をつける必要があるので、何でもかんでも最終的に同じ答えを出すわけにはいかない。

 

多分たくさんの本を書くと言うのは、1人の人のあらゆる考えの根っこから生えていく、枝葉の部分を色を変えて区別し表現した物だと感じました。そうじゃなければ、全ての本の結論が同じになってしまい面白くないですよね。

 

ぼくの場合は、おおよその結論を前提にテーマを決めて、話を膨らませていましたが、これが100記事書いたコツのようにも感じます。

 

そんな事を考えながら、ブログを書いていく内に気付かされた自分の考えなんかもありましたた。

 

ぼくのブログには3つのベースがありました。

1つ目は、考え方次第で過去は変えられる事。

2つ目は、生きづらさからの脱却。

3つ目は、幸せになるための秘訣。

 

だいたいの記事がここからの派生。

他にも日常的な記事を途中から書くようにもしましたが、そこら辺は息抜きとして書いていました。

 

ではそれらの記事を書き続けて、

果たして自分は変わったのか。

 

ぼくは、

はっきりと自分が変わったと感じています。

 

特に、考え方次第で過去を変えられるという考え方。自分の生い立ちに悩みに悩み、毎晩あてもなく散歩して逃れようとしていた日々。ブログの記事として、自分の考え方を整理して行く内に過去に対する解釈を変え、見方が変わっていきました。あの過去があるから、今の自分がある。これは1つの記事としても書いた物ですが、「全ては自分のため」というように考えるようにしました。

 

そして、今の生き方に満足し、日々の自分の生活の中で幸せを感じ続ける。日常生活がいつも幸せであるほどの幸せがあるでしょうか。特定の時、特定の場所である必要はありません。

 

生きづらさからの脱却については、まだ試行中です。でも必ず、自分の感じる生きづらさからの抜け出してやると、いつも励んでいます。

 

では、そろそろ1500字になるので

終わりにします。

 

100記事は達成しましたが、

これからも更新していくので

楽しみにしていてください♪

 

これからも続けてよろしくお願いします。

人を強くする無感情

自分の感情を無にする方法を知っていますか?

感情を無にした経験はありますか?

 

ぼくは日常生活の中で、しばしば感情を無にする事があります。そしてそんな習慣がある中で、その無感情が自分を強くしていることに気付かされた。

 

人は感情的な生き物で、その感情があるからこそ人生が楽しくなる反面、その感情があるからこそ、不愉快な気持ちや、怒りや、憎しみや、自分にとって心地よくない感情も持つ事がある。

 

ぼくは子供と大人の違いは感情をコントロールできるかどうかだと考えている。感情的な大人を見ると、見かけは大人でも中身は子供だと思ってしまう。ぼくにとってこの基準は大きく、ぼくはこんな大人にだけはなりたくないと、切に願ってしまうが、、ここで感情的になっては元も子もないか。

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ぼくが感情を無にする時は、楽しんだり喜んでいる時ではなく、その真逆。怒りや憎しみ、苛立ちや悲しみ、寂しさを感じる時だ。

 

こんな時ぼくは、深呼吸して何も考えないようにする。すると、10秒前の自分が嘘だったかのように、冷静な自分がそこにはいる。ぼくはこれが感情をコントロールすることだと考える。感情というのは時に見えるもの聞こえるものを制限し、自分の偏見でものを見たり、行動を起こしたりする。こんな大人をぼくはこれまでに何人も見てきた。そんな人間は後々、自分のした行動を冷静に考えて後悔し謝罪する。つまり彼らは感情的になったが故に失敗を犯しているのだ。

 

そうならないためのコントロール。

 

そのような感情が生まれたとき、深呼吸し思考をリセットする。そして、目の前にある問題を冷静に観察すると、また見え方が変わるもの。

 

強いという表現が適切かわからないが、自分の感情をコントロール出来るようになったというのは、また一歩本当の意味での大人に近づいたと思える。

 

少しオーバーな表現かもしれないが、力が物を言う戦国時代ではまかり通った感情的な行動も、現代社会で通用するかどうか。

世の中の偉人と呼ばれる人達の何割が感情的な人だっただろうか。これはぼく自身の偏見であるが、きっとそんな人は少なかったのではないかと想像する。いや、少ないと信じたい。

 

ぼくは感情を無にする。

 

嫌な感情を抱く時間が少なくなると言うのは、必然的に生きやすさへと繋がる。

 

最近アンガーマネージメントという言葉が流行っているが、今回の記事で書いた事はその中の一つだろう。ただ、怒りだけに限らず、悲しみや寂しさも自分の力で乗り越えられたら大したものだ。

 

むしろ後者に挙げた2つをコントロールする事こそ、人を強くするのかもしれない。

 

以上。

今日はここら辺で〜。

 

今日ので99記事!

あと1記事で100記事到達!

依存先を増やす

ある本のどこかに

「自立とは依存先を増やす事」

と書いてあった。

 

ぼくが知るのが遅く、この言葉を既に知っている人もいるだろう。最初ぼくがこの言葉を見た時は違和感というか、疑問というか、衝撃を受けた。

 

ぼくは、あまり深く考えた事はなかったが、自立とは他者に依存しない事と理解していた。

 

しかしここでは「他者への依存を絶っていくのは孤立を促す事」だと言っている。

これは肯定的に考えることができた。

 

ではここでどのような形での自立が勧められているかというと、まず一般的に考えられる自立と言うのは親からの自立だろう。

 

決してどのような状況が良く、どのような状況が悪いというわけではなく、客観的な視点で考えると、金銭的な依存にはじまり、暮らしに関わる依存、精神的な依存などが挙げられるだろう。

 

あらかじめ言わなければならないのは、ここで言う「依存」とは、離れたくても離れられないとか、それなしには生きられないと言う闇のある意味合いではなく、「ただ頼る」と言う面が強調される。これも立派な「依存」と言う言葉の意味である。

 

そう考えると、先に挙げた言葉もフラットな意味合いとして理解することができるだろう。

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冒頭で挙げた「自立とは依存先を増やす事」という考え方は、まず大前提として「人は依存なしに生きていけない」という事が根本にあるようだ。これもまた肯定的に考えることができる。よく「人は1人では生きていけない」と言う言葉も同意義だろう。

 

話を戻し、親からの自立を考えると、親から自立をすると共に、金銭的な依存先は会社に向けられ、親に頼る人間関係は友人や知人、恋人や結婚相手へと向けられる。精神的な依存も然りである。あまり「依存」と言う言葉を使うと違和感を感じるかもしれないが、確かにある程度自立した自分の身の回りを見てみると、決して一人で立ってはおらず、誰かしらに支えられていることに気付かされる。

 

それでは、今後 自分が依存していると言う理解で生きるとしたら、どのような利点があるのか気になる。

まず一つ挙げられるのは、自ら自立を意識して前進する事ができるのではないだろうか。自分が誰に依存しているのかを把握する。おそらく、ここで勧められるのは、一人に大きく依存するのではなく、多くの人に依存を分散させる事だと考えられる。誰かを失った時に、自分も共倒れするのではなく、別の所にも比重があるからこそ、倒れずに済む事があるだろう。

 

そして次に思いつくのは、人間関係において積極的に生きる事ができるのではと考える。人脈と言っていいだろう。これまで親の背中しか見た事がなかった人間が、多くの人と関わり、多種多様な考え方の中で揉まれていくのは、確かに自立への第一歩と言えるだろう。友人知人としての人間関係や、仕事を教えてもらえる上司との人間関係、これまで多くの感銘を受けてきた、学生時代の先生との人間関係。

 

ここまで書いてた事は自立を促すものであり、また同時に今後の自立を意識するためのものと考えている。

 

「自立とは人間関係を断ち1人で生きていく事」だと考えるよりも、前向きで、今後の希望を見出すことができるように感じる。

「依存してはいけない」という考えで、成長を考えるならば、今あげた人間関係を全て断つことになる。それはまさに孤立そのもの。

 

あまり依存という言葉を毛嫌いせず、自分は人に助けられながら生きているんだという事に気付きたい。

 

以上。

 

練習と目的。

ぼくは趣味でサックスを吹く。

学生時代に吹奏楽部で吹いていた。

 

しかし、個人的に楽器に興味があったかと言うとそうではない。それは身近に楽器をやっている人がいたから。

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ぼくの父はトランペットを吹いている。

地域のどこの楽団にも所属していないが、おそらく、この県のアマチュアの中ではトップレベルだと噂されるほどの腕前だ。

 

そして母はピアノを弾く。

母がいつからピアノをしているのかは分からない。家に置いてあるピアノにも普段触ることもしないが、一度弾くとなればなんでも弾ける。

母いはく、感覚で弾いているから楽譜も読めないとの事だが、にわかには信じ難い。

 

そしてその2人に感化されてトロンボーンを始めたのが兄だった。兄もまた覚えの早い人間で、器用に賞を取りに行くほどの腕前だ。

 

そして次はぼくの番となった。

自然な流れで、ぼくがどの楽器を吹くかと言う話になり、ぼくはサックスを選んだ。

 

トランペットとトロンボーンは金管楽器というように仲間分けされる。他にもホルンやチューバなども金管楽器だ。

その一方サックスは、木管楽器として分けられる。他にもフルートやラリネットなどが同じ分類だ。

 

なぜぼくがサックスを選んだのか。

ぼくの目には父も兄も手の届かない所にいる存在。とてもじゃないが、同じ土俵に立って比べられるのはごめんだと考えたのだ。

 

その判断をしたのは、ぼくが中学生の頃だが、我ながら賢明な判断だと今でも思う。

 

そしてぼくのサックスライフは始まった。

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その頃からの軌跡をたどると、本題に至るまでに時間がかかるのでさっそく本題だ。

 

世の中には、この練習も目的という話はありふれていると思うが、この楽器の世界にも存在する。

 

単刀直入にぼくの考えを話すと、練習する目的の根本は、楽器から出るすべての音を統一させるためだと考える。楽器というのは思っている以上に複雑で、同じようにボタンを押せば、同じ音色で音だけ変わるかというとそうではない。

低くなればなるほど、品のない音になったり、高い音になればなるほど耳障りなやかましい音になったり。

 

ではその状態で指だけが正しく動き、曲を吹くと、曲としての完成度は低く、統一されていない音色というのは、まさに素人そのものの演奏となる。

 

ぼくはプロと呼ばれる人たちの一つの条件は、いかなる時にも、ある程度のアベレージを保ち、求められるパフォーマンスをこなせる事にあると考えている。

 

つまり、普段からの練習により、全ての音に統一があり、どのような楽譜を吹いても、正しく楽譜を読めば、ある程度クオリティが出せる状態。

 

練習という言葉が一人歩きして、練習曲をうまく吹くための練習になっている人が非常に多い。どのような練習であれ、曲を美しく吹くための練習であることの意識は忘れてはいけない。

 

そんな事を言っているぼく自身が、最近この問題にぶち当たっていた。練習では綺麗な音で吹けるのに、曲になるとうまく吹けない。まさに本末転倒である。

 

また、この練習と目的という問題は、同じように色々な場面で役に立つはず。目的意識のない練習はもはや意味がないと言っても良いかもしれない。

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もう一度大切な事を教えられた。

では今日はここら辺で。

静かに見つめる。

忙しいと。いや忙しくなくても。もしかすると人生の中で一度もしない人もいる。必要不可欠ではないから。でもやってみて悪くないんじゃないよ。

 

深くも浅くも、

短くも長くも、

簡単にも難しくもできる。

 

ある人は椅子の上で目を瞑って。

ある人は散歩しながら。

ある人は地面を見つめながら。

ある人は空を見るかも。

 

ただ最初、深呼吸してみると良いよ。

それだけで特別な時間になる。

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人と関わっていると自分の価値観は結構左右される。実は自分の考えは他人から鵜呑みにした事で、本当の意味で自分の意思になっていない事がある。自分が今欲しい物は、本当に自分が必要としているのか、他人の必要が自分の必要と錯覚している事もある。

 

自分を見つめるとは、

自分がどんな人間か知る事。

 

すごく簡単な事を言うなら、何が好きで何が嫌いかを再確認。自分はこれをしている時、幸せを感じるんだな、とか。自分は周りに流されてやっていたけど、これをするのは苦手だし、嫌いなんだな、とか。

 

少し踏み込んで、自分の持つ世界観について考えてみたり。どんな基準で人を見て、どんな基準で物事を観察しているのか考えてみる。

 

そんな事を考えていると、自分が人より頭一つ秀でているように感じたり。でもそんな時間を作っているのはたぶん職場で1人だけ。たぶんその町で1人だけ。

 

少し人生が楽しくなる。

頭の中でごちゃごちゃになっていた糸の絡まりがほどけ、それぞれあるべき場所に収まっていく。日常生活が有意義になり、社会生活が楽しくなる。

 

自分を見つめた後は、自分の仕事を見つめ、自分の人間関係を見つめるといい。

 

そして我に帰ると、何気ない日常に、こんな時間を作る事ができるのかと驚く。

1日の中で、1週間の中で、最も意味のある時間を過ごした事に気がつく。

 

明日からも変わらない毎日が続くけど、外からは見えなくても、中身の変わった自分がそこにいる事は、自分だけが知る秘密事。

 

深呼吸して自分を見つめるって、正直 小っ恥ずかしくも感じる。だけどやってみて。

 

さっきも言ったけど、我に帰ると、こんなにも意義のある時間が、日常の中に作れるんだなと感じるはず。

 

ぼくはこの時間が好き。

 

なんとなく自分を大切にしてる感があるんだよね。いや、大切にしてるのか。大切な人を思うように、自分を思うのだから、大切にしてる事になる。意外と冷静で、意外と見る目があって、意外と感の鋭い自分と出会えるよ。

 

では今日はここら辺で。